忘備録。

晦日に退院した母。

施設に送り届けて、ケアマネに申し送り&病院からの書類を渡しました。

「おかえりー 早よ帰ってこれて、よかったねー」

聞き慣れた声にホッとしたのか、かすかに笑顔。

行きに車酔いしたので、帰りは、ひたすら話しかけていたけど。

きっと誰か、わからなかったのね。

何度も「もうすぐ?」と聞いただけだったけど。

そばにいるのが、娘だとは、わかってなかったのね。

施設が、母の安らぎの場所になったんだなと思うと、それでよかったと思う。

 

私が後見人をして、亡くなった叔母と叔父。

叔母は、母の実の姉だけど、ホント、仲が悪かった。

叔母が亡くなった後も、悪口しか、なかった。

よく、恨みつらみを言う時に「私が死ぬまで忘れないから!」とは、よく言ったもので、相手が亡くなったから、とは、言え、許せるもんじゃないとつくづく思った。

叔母は、脳梗塞で心肺停止になり、植物状態で1年間、過ごして亡くなった。

心肺停止になった時に、病院から、この先、どうするのか、聞かれた。

現役時代は、引っ越し引っ越しで、単身赴任も多かった叔父。

でも、定年退職してからは、365日ずっと一緒にいた叔父だけど、一度も「その時が来たら」と話したことは、なかったらしい。

ただ、子供がいない夫婦だったので、お互いに対して遺言状を書いていただけ。

延命してほしいのか、どうか、もちろん、わからないまま、叔母は、意思表示ができなくなった。

叔父と一緒にその場にいたけど、叔父が判断を下すべきだと伝えた。

たぶん、叔父は、パニックを起こしていたと思う。

普段は、人よりも少しテンポがずれていて、のんびりした人だった。

ほとんどのことに動じる人じゃなかった。

「5分で決めてください」

「看護師が今、手動で呼吸を確保しています」

「人工呼吸器を使うか、どうか、決めてください」

そういうと、医師は、出て行った。

叔父が「どうしよ?」と振り返った。

ごめん、私には、何も言えないよ、と伝えた。

それから、それまでしたことがないほどの長くて深い呼吸をしたように思う。

 

そのずっとずっと前に、父が亡くなった時も、父のベッドサイドにいた。

夜中だった。

突然、病院の母から電話があって、すぐに来るように言われた。

終電車に間に合い、駅からタクシーで病院に。

父の呼吸がだんだん遅くなり、忘れた頃に息を吸う。

なぜか、引き留めねば…とは、思わなかった。

そばにいることだけ、伝えたかった。

耳元で「ここにいるよ」と言うと、深い息を吸う。

きっと聞こえてる、という返事なんだろうと思った。

そんなことをたぶん、叔父の決心を待つ間、短時間だったのだと思うけど、思い出していた。

「助けてもらお」と叔父が決めた。

すぐに人工呼吸器がつけられた。

その後、叔母は、療養型の病院に転院した。

そこで、口からは、呼吸できないけど、喉に開けられたところから自発呼吸ができるようになり、人工呼吸器が外された。

 

母は、一度も会いに行かなかった。

会いに行っても、叔母には、わからなかったかもしれないけど。

そして、「見苦しい生き方」と言ってのけた。

その時は、もし、反対の立場でも、叔母も同じことを言いそうだなと思ったっけ。

それほど仲が悪い姉妹だった。

叔母の後見人になった私をよく罵っていたなぁ。

「いったい、いくら、もらったの?」とまで言われたなぁ。

「私は、あんな見苦しい生き方、しない」

「絶対に延命なんて、みっともないこと、しないで」

「まあ、あんたなんかに世話にならんけどね」

「@@(妹)の方がずっと優しいし、気が付く子だから、あの子の世話になるから」

 

なぜ、こんなことを書いたのか。

そう、施設に戻った母が飲食しなくなったのですよ。

母は、繰り返した熱中症のため、腎機能も心機能も弱りました。

水分を摂らなくなると、腎臓がダウン。

摂りすぎても、心臓がダウン。

もっと元気な頃は、「水すら、飲ませてもらえない!」と文句ばかりでしたが、今の施設に入ってからは、文句を言うこともなく、コントロールできていました。

それが、急に食べない、飲まない。

「その時」が来たのかもしれないけど、とりあえず、水分補給のために点滴を考えましょうか?とケアマネから電話。

結局、一度で終わらない点滴なので、点滴口の衛生管理がむずかしく、点滴するなら、入院と言う話が出てきました。

ちょうど、オミクロン株の感染拡大が始まった頃。

こんな時に、受け入れてくれる病院ってあるのかな。

でも、もし、これが本人の意思としたら…。

本人は、「みっともない生き方」をしたくないんじゃないのかな。

ケアマネと何度も電話で話しました。

年末年始、交代でお休みを取ってらして、きっといつも以上に忙しかっただろうに、申し訳ない。

母が好きだったカルピスやら、オレンジジュースを持って行きました。

ひょっとすると、飲むかもしれない。

食べないことは、本人の意思に任そう?

なんとか、自力で飲んでもらえないかな。

すぐに入院を考えずに、様子を見ることにしました。

 

フルタイムで仕事をしている妹には、週末に電話。

でも、出ない。

手が空いたら、電話してください、とメール。

それでも、返事がない。

返事のメールが来たのは、日曜日の夜遅く。

「私は、納得がいかない」

「入院させるべきじゃないのか」

 

結局、その後、妹からは、母を気遣う連絡もなく。

ケアマネと相談して決めました。

母は、また食べ始めたようです。 いつも通りに。

飲んで食べてるようです。

母の中で何が起こっていたのか、わからないけど。

そういう時期が近づいているのかもしれません。

過去の何度もの入院時に、口から食べられなくなり、「胃瘻」の提案がありました。

絶対に母は、嫌がるだろうと思いつつ、本人の意思確認をしてくれと病院に言われ、ゆっくりと説明したところ、即答で「胃瘻をつける」と言った人なので、母の本心は、わかりません。

でも、自然に任せる時が近づいているのかもしれません。

せっかく設置した「胃瘻」でしたが、その後、好きなものを食べすぎて、胃がひっくり返りそうになり、在宅医の提案で、取り外しました。

今は、取り外しておいて、よかったと思っています。

 

叔母の延命を決めた叔父は、その後、「尊厳死宣言」をして、一切、何もしてくれるな、とあっという間に逝ってしまいました。

叔母の最後の1年間を見ていて、つらかったのでしょうね。

 

私ですか?

もちろん、延命は、NOです。

いつか来る「その日」のためにも、日々、できる限り、私らしく生きることですね。